はい。どんべぇです。壁 |_・)

平城宮跡の朱雀門。当時の役人たちは、この門をくぐって出勤していきました。
先日、平城遷都1300年祭で盛り上がる奈良に遊びにいってきました。
私は遣唐使ネタが大好きで、大学では奈良時代から平安時代初期にかけての外交について卒論を書いた程(人生最悪の負の遺産となっておりますが)。今回奈良に行ったのは単に1300年祭を楽しむだけでなく、あるモノに会いにいくためでもありました。
そこで今回は私が遣唐使に惹かれたきっかけとなった、そのモノとそこから浮かび上がる、ある一人の青年についてお話したいと思います。
あるモノとは、「井真成墓誌」という、8世紀の歴史史料です。
井真成墓誌とは?
墓誌というのは、昔の中国で作られた死者の生前の経歴を石に刻んだものです。墓碑はお墓の外に置かれるのに対し、墓誌は棺とともにお墓に入れられます。
2004年に中国の西安市(唐の時代では長安、唐の首都でした。)で発見されたこの墓誌は、なんと日本から遣唐使と共に唐に渡った留学生の墓誌。今まで唐で没した日本人の墓誌は一切発見されておらず、画期的な発見と言えます。同時に「もう一人の阿倍仲麻呂か」と報道され、話題になりました(阿倍仲麻呂は皆さんご存知ですよね?)。
さて、この「井真成」という人物、一体何者なんでしょう。

平城京歴史館に復元された遣唐使船
墓誌の内容
・墓誌の主は「井真成(セイシンセイ)」という人で、日本人である
・天皇の命で唐に来た(遣唐使の随員として来たってことです。)
・唐の文化に見事になじんでおり、もし宮廷に仕えていたら、他に肩を並べる者はいなかっただろう
・勉学に励んでいたが(つまり留学生)、開元22(734)年享年36才で急死した
・時の皇帝玄宗(あの有名な楊貴妃の旦那ですね)は彼の死を悼み、位を与えて手厚く葬った
・体は異国に埋まっても、魂は祖国に帰ることを願う。
墓誌文章の解釈については、学者さんによって異なりますが、ざっくりまとめるとだいたい上記の通りです。
浮かび上がる一人の青年留学生像
井真成の一生
生没年月日と享年で逆算すれば、井真成は699年生まれ。彼の生存期間に遣唐使は717年と734年の2回派遣されています。年齢から判断して717年の遣唐使に随行したという説が有力です。
なぜなら717年なら彼は19才(数え年)で、遣唐留学生に選抜される学生の当時の平均年齢と合致するから。734年の時点では彼はすでに36才(てかこの年に死んでる)ですから、留学生にしては高齢過ぎます。
ちなみに717年の遣唐使には、あの阿倍仲麻呂(当時16才 or 20才)と吉備真備(当時の名前は下道真備、23才)も留学生として参加していました。玄宗皇帝による「開元の治」まっただ中の唐で彼らは何を学び、語り合っていたんでしょう。
また、当時の留学生は通常、次の遣唐使船で帰国します。遣唐使の派遣間隔は約20年に一度。つまり留学期間も20年近くに及ぶのです。真成たちの迎えの遣唐使船は、彼が亡くなった734年にはちょうど長安に到着していた頃でして、彼は帰国を目前にして死を迎えたことになります。
ちなみに中国の研究者の間では、井真成の渡唐年は734年であり、彼は留学生でなく遣唐使団の役人であったという説が有力とのこと。白熱する議論は日本国内、日中両国内でまだしばらく続きそうです。→
朝日新聞記事

遣唐使船甲板。未熟な航海技術であったため、海の藻くずと化した乗組員は数知れず。
井真成とは何者か
「井真成」というのは、おそらく彼が唐で名乗っていた名前。その日本名は解明されていません。
「葛井連真成(ふじいの・むらじ・まなり)」説、「井上忌寸真成(いのうえの・いみき・まなり)」の2説が有力視されていますが、彼が日本名にこだわらず独自に名乗った可能性もあります。
上記2説の氏族は、いずれも現在の大阪府藤井寺市付近に分布していたとのこと。
そもそも留学生には勉学に秀でていて容姿端麗な地方の学生(阿倍仲麻呂は立派な位を持つ人が多い一族出身ですが)が選ばれることが多かったらしいので、真成もそれと同等の身分で、留学生としての素質があったので選ばれたんでしょうね。
唐で宮廷に仕えていたか?
墓誌は誰でも作ってもらえるわけでなく、死後皇帝から位をもらえるのも同様です。
井真成は一介の留学生にして、なぜか墓誌が作られ、皇帝から「尚衣奉御(皇帝の衣服を管理する係)」という高位を与えられています。
これを根拠に「井真成は阿倍仲麻呂と同じく玄宗に仕えていた。」とする説もありますが、それなら日本、中国双方に彼に関する記録が多少残るはずです。「続日本紀」によれば、「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡(阿倍仲麻呂)の二人のみ」とのこと。おそらく彼は任官していなかったのではと個人的に思います。ただ、何らかの秀でた才能を持っていて、多少なりとも皇帝の目にとまるものがあったのかも知れませんし、あるいは阿倍仲麻呂等のある程度皇帝に影響力を持つ日本人が、特別に取りはからった可能性もあると思います。
墓誌から感じる1300年前の世界
墓誌と出会って感じたこと
私が井真成墓誌を知ったのは、高校生の時でした。朝日新聞の一面トップに「もう一人の阿倍仲麻呂か」という見出しで墓誌の写真や研究者の見解が掲載されていたと記憶しています。当時私は彼が唐へ留学した年齢と同じだったので、「井真成」という1300年前の人物に非常に親近感を覚えました。その後、東京国立博物館で「遣唐使と唐の美術」という特別展が開催され「井真成墓誌」が展示されました。千数百年の時を越えて「里帰り」した彼の墓誌の現物を見られて感動したのと同時に、異国の地で彼は最期に何を思って死んでいったのか、同士の死を吉備真備と阿倍仲麻呂たちはどう受け止めたのか…などと思いが巡り、しばらくその場に立ち尽くしたのを思い出します。
もし、彼が日本に帰国していたら
地方出身者と仮定すれば、留学当時の境遇は吉備真備と同等の真成。きっと気があってよき友人同士であってもおかしくありませんし、もし真備と共に帰国できていたら、間違いなく歴史に名を留める人物になっていたと思います。現に真備は留学の功績ををきっかけに、晩年は右大臣にまで昇り詰めますからね。
*先日、
NHKで「大仏開眼」という吉備真備を主人公にしたドラマやってました。これ、わかりやすくて面白かったです。ドクター○トーな吉備真備と、かわいらしい孝謙天皇が印象的。→
番組Webサイト
終わりに
井真成は里帰りできたのか
墓誌が発見されたことで、突如としてその名が歴史に浮上した井真成。墓誌は発掘調査ではなく、どうやら工事中のショベルカーが偶然掘り起こしたものとのこと。その後骨董品店に出され、収集家に収蔵されたあと、しばらくホコリをかぶっていたのだそうです。ある日、持ち主が収集品の整理をしようと墓誌を清掃したところ、「日本」の文字が見えたため、西北大学に調査を依頼。それが井真成と墓誌の存在が世に知られるきっかけとなりました。
偶然に偶然が重なって発見された墓誌と、その名が知られるようになった井真成。墓誌はその後愛知万博で展示され、千数百年ぶりに日本へ「里帰り」を果たしました。
これを本当に里帰りといっていいものかはわかりませんが、墓誌が見つかって本当によかったと思いますし、ここまで古代を身近に感じられる史料に会えたことは、私にとって大きな感動となりました。
それから1300年。
現代では最新の書籍は本屋さんにずらりと並んでいますし、ネットでも買い物できます。おまけに電子書籍元年といわれる今年。書籍は電子媒体に形を変え、さらに流通経路を広げています。
翻って、真成が生きた1300年前。最新科学に関する書籍を手に入れたいものなら、唐に渡って入手する以外手段はなく、当然誰でも簡単に行けるわけがなく、唐でも現在のような印刷技術なんてないので、原本をすべて書き写して持って帰ってくる他ありません。命がけで唐に渡り、やっとの思いで日本に持ち込まれた書籍は、当時の遣唐留学生にとってはもちろん、日本人にとってもまさに貴重な宝物だったはずです。
書籍やコンテンツであふれかえる現代を、もし真成たち1300年前の人たちが見たら何を思うのか、電子書籍のニュースを目にする度に考えてしまうどんべぇでした。
参考書籍
井真成や遣唐使、その時代に興味がある方へ。
*専修大学・西北大学共同プロジェクト編「遣唐使の見た中国と日本 新発見『井真成墓誌』から何がわかるか」 2005年 朝日新聞社
*藤田友治「遣唐使・井真成の墓誌ーいのまなり市民シンポジウムの記録」2006年 ミネルヴァ書房
*東野治之「遣唐使」 2007年 岩波書店
*鐘江宏之「律令国家と万葉びと」2008年 小学館
(順不同)
また、井真成を主人公にした小説「井真成、長安に死す」も発売されています。私まだ読んでないので、もし読んだ方いらっしゃったら、ぜひ感想聞かせてください!